ケンケンの夢飛行

シッペイです。性別-男。特徴-食いしん坊。趣味-街めぐり、スポーツ観戦。誕生日1月20日。友達のジュビロ君。仕事は市やチームのPR☺

ヨーロッパ空中散歩(南フランス🇫🇷❶)

鷲の巣村とコート・ダ・ジュール

イタリアとの国境に近い南フランス、向こうに見えるのは地中海、先ずは山あいの空中散歩です。

地上からはなかなか気付かないけど、鳥になった気分で眺めて観ると、この山肌の切り立った光景の厳しさがよくわかる。

遠くに人間の住む民家が見えてきました。

近づいて見ましょう。

切り立った岩山に村が造られています。トゥレット・シュル・ルーです。

村の頂上にはマリー城を頂きベージュ色の壁に赤い色の瓦の屋根がまるで積み木細工のように肩を並べて寄せ合っています。

この姿は「鷲」の姿のように見える事から「鷲の巣村」と呼ばれています。

ローマ帝国が滅びた5世紀以降、異教徒からの襲撃を守る為や食料難等、農民達は

多くの苦難に耐えながら村を守りぬく為に山の頂きに城を築いたのだと言います。

こうした「鷲の巣村」がコート・ダ・ジュールには100余りも有るのだそうです。

村はやがて織り物産業で栄え、今でも織り物職人やデザイナーが沢山暮しています。

そんな「鷲の巣村」の一つ「サン・ポール・ドゥ・ヴァンス」

此の村は14世紀に造られた城壁が村を囲み中世の雰囲気を今でも色濃く残しています。豊かな光や色が溢れた美しい此の村にやって来た芸術家がいます。

「マルク・シャガール」です。村の外れにアトリエ兼住居を構え、ここに暮らしたそうです。

石畳が続く小さな村には16〜17世紀に造られた建物が建ち並んでいます。細い路地には現代アートの店や雑貨店等、今は観光地として賑わいますが街並みは中世の面影そのものです。

石灰岩の山の麓に連なるのは隣の「ヴァンス」の村です。旧市街は城壁でぐるりと囲まれ「壁」そのものが家になっています。

城壁の内側には静かな生活が営まれています。

さて、もう一山越えてみましょう。

断崖の上に街の姿が見えてきました。コート・ダ・ジュールプロバンスの間に位置する「グルドン」の村です。標高は何と760m、フランスの最も美しい村の一つに選ばれています。この村の歴史は古代ローマまで遡ります。村の名前はプロバンス語の「クルドンヌ」岩の絶壁の上にある要塞と言う意味だそうです。

ヴェルサイユ宮殿の庭園を造った人の設計だそうです。実はこの村、最近映画のロケ地として使われたそうです。その映画🎬🎥とは

レ・ミゼラブル

 

 

マルタ共和国❺

16世紀計画的に建設された首都ヴレッタ

勝利の女神教会は、此の地での最初の建築物(現首相官邸)騎士団の寄宿舎の一つ「オーベルジュ・ドウ・カスティーユ」

「ヴィットリーオーザの住宅街」ここに最初に入植した。

「ハジャー・イム神殿」

紀元前3,000年頃の建設物

マルタの島々30を越える石灰岩の巨石神殿が有り、そのうちの6か所が世界遺産になっている。

マルタの巨石神殿群

1980年と1992年、世界遺産に登録、大きな石は重さが20トン、その運搬方法や正確に積み上げる技術は未だに謎とされている。

最古の神殿はエジプトのピラミッドよりも1,000年以上前のものだと判明。

マルタは地中海文明発祥の地と言われている。

命の再生を表す渦巻き模様を彫った巨石、首が嵌め込み式になっている女性像等。紀元前3,600年頃に建設された「イムナイドラ神殿

」時代を追って増築された建物には進歩の跡が刻まれている。中でも重要だったのが、豊作の祈願をする建物跡、その為に祈りをする為の女神の像が沢山出土している。

古代人は紀元前2,000年頃に忽然と姿を消した。しかし、出土する遺跡群にはその跡が沢山残されている。

約400年前の農家に手を入れて納戸代わりにしている。農具やワインを置く場合、此の内はひんやりしている。

石灰岩は太陽の光に当たっても全く熱を持たない。

この自然の恵みを島の人々は何千年も利用してきた。

130年前の荷車

 

東海岸に広がる「マルサシュロック」歴史の古いマルタ最大の漁業の街、漁師達は魔除けとして船先に目👀が描かれたカラフルでユーモラスなルッツと呼ばれる舟に乗り、地中海での漁を続けている。

マルタの近海で採れるのは、ほとんどが小魚、しかし、その種類は驚く程豊富。一番の名物は蛸

蒸しオーブンで1時間、タップリと蒸し上げるのが秘訣。

ブルーグロット(青の洞門)

船乗り場からブルーグロットまで約40分、4か所の洞窟を巡る。

ブルーラグーン

マルタ島から6km離れた

ゴゾ島へ向かう。

紀元前3,600年頃に建てられたジュガンティーヤ神殿

世界遺産に登録された6つの遺産の内の一つです。

丘に建てられたのは「ヴィクトリア・チタデル」城塞

海賊が頻繁に出没する時代、島の人々は日没になると、この城内へ戻って暮らしてきた。

「セント・ミケーレ堡塁」

シレンディ湾」は島の南部に広がる。

シレンディビーチ

「フォンタナレース工房」

代表的な工芸品はレース編み

古い共同洗濯場の「キビーラ」洗濯場

たった一つの湧水から水源を採っている。

農産物の品評会、川の無い雨の少ないマルタで豊富な野菜や果物が採れるのは段々畑に特徴がある。

耕地は石灰岩の石垣で囲まれている。マルタの土の源は砂嵐の時に地中海を飛んで越えて来るサハラの砂。

この砂を雨や風で流さないようにしている。畑の土として守ってきた。

揚水風車

岩盤の隙間に溜まった僅かな地下水を汲み挙げて一旦貯水槽に入れ、必要最小限の水だけを作物に与える。

マルタは世界的な蜂蜜の生産地

エリザベス女王からの感謝状

4ヵ所の養蜂場が有り、ここでは600万匹の蜜蜂を飼っている。

荒地に根を張る「ワイルド・タイム」の蜂蜜を吸いに蜂が集まります。

マルタ共和国

いかがでしたか?

少しつまらなかったですかね❢

次は南フランス🇫🇷へと飛んでまいります。

 

マルタ共和国❹

バレッタのバス🚌ターミナルはさながらバスの博物館のよう。島のあちこちに昔ながらのバスが市民の足として行きかっている。

150年の歴史を持つ土産物屋で旅人の一番人気はバスグ。

バスの所有者はドライバー自身、自分好みに改造を施して愛情をそそぎ、そして個性を競っている。

このバスの車体は45年も前のもの持ち主がキャデラックのモデルをモチーフにした車を見せてくれました。

ドライバー達の憩いの場、名物はミルクティーとサンドウィッチ、美味いものはドライバーに聞け!❢

現役最古のボンネットバス、50年前に造られたボンネット。

城内の街イムジーナと郊外の街ラバト、ここは2000年を越えるマルタの古い都です。

「ラバト聖パウロ教会」

ラバトはマルタにおけるキリスト教の発祥の地、聖パウロ教会は其の歴史を伝えている。

西暦60年、キリスト教の伝導者達は地中海で嵐に見舞われ、ここマルタに到着。

ラバトの人達は彼等を手厚く持て成し、此の時の伝導者の一人がイエス使徒パウロ、教会の下に彼が潜んだ洞窟が残されている。

キリスト教が認められていなかった時代、パウロはここで熱心な布教に取り組み、その偉業を称え1990年先のローマ法王ヨハネパウロ二世も此の地で祈りを捧げている。

パウロの地下墓地

別れの儀式の「アガベテーブル」が当時のまま残されている。

ひたすら岩を刳り貫いて1,000人もの信者を埋葬した巨大な聖パウロの墓

100年以上も前に僅か17名で設立されたラバトのブラスバンドのクラブ。

今では海外でも講演を行い、数々の音楽賞も獲得したマルタきっての名門クラブとなった。

フェニキア人が城壁を築き、此の地を安全な場所を意味する「メリタ」と呼んだのが紀元前8世紀。イムジーナはマルタ発祥の地と言われている。

「ラバト守護聖人祭」祭りはブラスバンドの演奏から始まります。

守護聖人パウロの登場、人口39万人のほとんどがク信者と言われるマルタ共和国

古くから娯楽の少ない島国で夏の守護聖人祭は今も人々の最大の楽しみです。

地中海の中央、紺碧の海に剥き出しの断崖が続きます。マルタの島は悠久の時が育んだ石灰岩の塊です。

今も島の至る所で石の切出しが行われている。

石灰岩遺産」屋外博物館

先史時代の神殿造りを再現、石灰岩に残る貝の化石から島が昔、海の底だった事が判ります。

雨が少なく川の無いマルタでは、僅かな地下水が貴重な飲み水。

岩盤を掘り抜き、井戸を確保する事が街造りの原点であった。

 

 

 

 

マルタ共和国➌

中世、ペストの鎮静に一役買ったのが猫。マルタには猫が溢れています。元々、島に猫を持ち込んだのは船主。「ネズミ」から食料を守る為、猫は航海にも欠かせないものであった。

マルタ猫協会は病や傷を負った野良猫達の回復を助けるボランティア団体。

運営の費用や治療費、食料費は国が援助、猫の支援は島を挙げての取り組みです。

現在ここでは400匹の野良猫を預かっている。その数は日を追って増えるばかり。

マルタは世界一と言われる猫の過密地。

淡路島の半分程の国土に70万匹がいて、餌を巡る争いも大変です。しかし、その過酷な生存競争が驚くべき進化をもたらします。

マルタの弱い猫は自らの手で梳くって餌を食べるようになった。厳しい環境から生み出される知恵と工夫。

これは常に外敵の脅威に怯えた絶海の孤島で逞しく未来を切り開いてきたマルタの歴史を偲ばせるものです。

地中海の真ん中に浮かぶ城塞都市マルタの首都「ヴレッタ」ヴレッタ市街は1980年に世界遺産に登録。

海からの侵略に備え16世紀に建設されたこの街も、今や人気の観光地、メインストリートは世界中の旅人で賑わっています。

静けさにつつまれた裏通り、「守護聖人の像」至る所に聖人の像が飾られている。城塞都市ヴレッタはイスラム勢力に対するキリスト教の砦として築かれました。

「聖ヨハネ大聖堂」

オスマントルコを退けてヴレッタの街を造ったのが聖ヨハネ騎士団、この大聖堂は彼等の聖地です。

ヨーロッパの大貴族の子息で構成され、莫大な財力を誇った聖ヨハネ騎士団

天井には彼等の守護聖人ヨハネ」の生涯が華々しく描かれています。ヨハネはイエスに洗礼を施したキリスト教の父なる聖人です。

「内陣主祭壇」

大聖堂で一際目を引くのが色大理石の床、400枚を超える騎士の墓標にはそれぞれの功績や名前に加え、死をも怖れぬ勇者の証に敢えて「☠ドクロ」が描かれました。

聖ヨハネ騎士団の十字架(マルタ十字)」

騎士団はヨーロッパ8ヶ国が集まった多国籍軍

「オーベルニュ語族の礼拝堂」「アラゴン族の礼拝堂」大聖堂にはオーベルニュやアラゴン、イタリア、ドイツ等言語別に礼拝堂が設けられている。国籍に依らず騎士団長の選出は能力視。騎士団長レイモン・ペレロスの墓碑

ペレロスはアラゴン族が誇る勇士

生涯、結婚を許されなかった彼等が国籍を越えて慕ったのが甲冑を着た聖母像

「フィラモスの聖母礼拝堂」です。

 

 

マルタ共和国➋

聖エルモ砦

聖ヨハネ騎士団の訓練風景を再現した「イン・ガーディア」武器も装束も当時の物が使われている。

毅然としてキリスト教世界を守ったその栄光。今もマルタの誇りです。

「騎士団長の宮殿(現大統領府)」

歴代の騎士団長が暮らした壮麗な宮殿、ここは騎士団にとって軍事面でも重要な拠点でもありました。

武器庫には6,000点を優に超える豊富な戦いの装備が残されている。

団員はそのほとんどがヨーロッパ各国の有力な貴族の次男や三男でした。

騎士団の甲冑・トルコ軍の甲冑

当時、キリスト教を守る聖ヨハネ騎士団に加わる事は大変な名誉であり彼等のもとには家の、そして国の威信を賭け莫大な支援が颯爽。その為騎士団は常に最新鋭の装備を整えていた。

豊かな財力、それがオスマントルコの大軍を打ち破った一番の要因です。

宮殿最大の見どころは長さ62mの武器庫の回廊、床にイタリア産の鮮やかな大理石が用いられ、隅々まで装飾が施された絢爛たる通路には壮大な権力を誇っていた歴代の団長達の肖像画が飾られている。

かって団長の玉座が置かれていた大会議室、その壁には12枚にも及ぶ大包囲戦のレリーフ画が飾られている。

各国の賓客を迎える大使の間(赤の間)後の時代、イギリスの女王も招かれた風格溢れる部屋です。

豪華なタペストリーも又、壮大な騎士団の栄華を偲ばせています。

(審議の間)(タペストリーの間)

ゴブラン織りのタペストリ

その財力は惜しみ無く街造りにも投じられました。

騎士団施療院

ヴレッタの施療院、16世紀ヨーロッパで最高水準の医療を誇ったこの病院は騎士団の成り立ちを物語る。

155mの世界一長い病室

元々、聖ヨハネ騎士団は12世紀のイスラエルで巡礼者の医療を手掛ける為に設けられた医師達の集まりでした。

傷付いた者達に優しく手を差し延べる事が本来の使命としての騎士団の姿であった。

 

地球遺産の旅「マルタ共和国」❶

イタリア、シチリア島の先、地中海に浮かぶ島「マルタ共和国」首都「バレッタ」を初め2つの世界遺産を巡ります。

古き都イムジーナとラバ、静寂の街を彩るのは聖パウロの街、紀元前3,000年以上の歴史を持つ土石神殿群、石灰岩が生活と文化を育む。そして珊瑚礁が生える島から、今回は地中海文明発祥の地、マルタの大いなる遺産とそこに生きる素晴らしい人々の姿を伝えます。

「聖なる要塞都市、マルタの古代浪漫」

バレッタ市街1980年世界遺産に登録。

古くから地中海の「臍」と呼ばれ数多の歴史が刻まれてきた島々、マルタ共和国

首都バレッタは16世紀なかば日本🇯🇵では織田信長の時代に堅牢な城塞都市として築かれた。

セングレア砦、岬の先に建つ監視塔は戦乱の世を偲ばせ「監視塔ヴェデット」

様々な民族が往来する大海原に向け目👀を見開き、耳👂を研ぎ澄ませていた。

この島はキリスト教最後の砦です。

1565年グレート・シーズ

(大包囲戦)地中海の覇権を握り始めていたイスラムオスマン帝国、その4万の大軍を迎え撃ったグレート・シーズの舞台はここマルタ。

当時、島の統治を任されていたのは、およそ700人の聖ヨハネ騎士団、彼等は援軍が到着するまでの3ヶ月間、9000人の島民と共に島を守りぬき、そしてトルコ軍は撤退、グレート・シーズの勝利でキリスト教の世界が死守された。

戦いを仕切ったのは聖ヨハネ騎士団の団長ジャン・パリソ・ド・ラ・バレットであった。

グレート・シーズの翌年から城塞都市の建設が始まり、街は団長の名をとって「バレッタ」と名付けられた。

バレッタの入口「ビクトリアゲート」建築資材は島で切り出される石灰岩、蜂蜜のような色合いから「ハニーストーン」と呼ばれている。

 

城塞都市として徹底的に計画されたバレッタ、通りは碁盤の目のように縦、横、全て海に向って一直線に延びている。

段差の低い階段は馬🐴での通行に配慮し、いずれもが迅速に敵を海岸で向かえ撃ち、島への上陸を許さぬ為の仕組み。

20年掛かりで建設された城塞都市バレッタ。高台に広がる中心部、メインストリートここでは城塞都市ならではの特別な仕組みを見せてもらった。500年前の地下トンネル、壁面に伸びるのは街路樹の根、当時の姿をそのまま留めたまま、トンネルは延々と続き、所々に造られた空間は市民の避難所、第二次世界大戦ではドイツの空爆に耐え、多くの命を救っている。

四方八方へと延びるトンネルは甲冑を身に纏った兵士も楽々と通れる広さで、ここには大いなる戦略が秘められている。

出口の一つが街外れの壁面の洞窟、騎士団はここに隠していた舟で敵の背後に廻り込み敵を撃退した。

 

空撮紀行・ルーマニア「トランシルバニア地方」➌

トランシルバニアの古都「シビウ」ここは12世紀にトランシルバニアに入植してきたドイツ人達が創り上げてきた街です。

その為「ゲルマン・シュタット」というドイツ名が有ります。

革命前にはチャウセスクの息子が市長だった為、強い緊迫感が漲っていました。

街の中心部には東方正教会の大聖堂が有ります。

古都「シビウ」の街並みは中世の雰囲気を色濃く残しています。

トランシルバニアを日常的に楽しんでいるのは「コウノ鳥」でしょう!

人間にとっては激動の出来事も鳥にとっては外界の出来事に過ぎませんから!

長期間に亘る圧政と革命をくぐり抜けルーマニアは民主主義国家として新たな道を歩んでいます。

今はまだ経済的困難に苦しんでいますが、この豊かな国土はいずれ人々に大きな富をもたらす事になるでしょう。

ビエルタン」もかってドイツ系の人々が創り上げた村です。しかし、ほとんどの若者はこの小さな村を離れ都会に出るようになってしまいました。

1989年に600人程度いた村人は革命後の数年間で更に激減、今、ビエルタンは絶滅の危機に瀕しています。

このひなびた美しい村「ビエルタン」は1993年世界遺産に認定されました。

その大きな理由となったのが、小高い丘の上に建つ大聖堂です。

後期ゴシック様式ルネッサンス様式を加えた建築で15世紀末から16世紀初めにかけて建てられました。

その後、防壁等が増築され

要塞としても利用されるようになりました。

豊かな森に囲まれたトランシルバニアは工芸品作りも盛んで特に木彫り細工が有名です。

シギショアラの街が近づいてきました。この地方で最も魅力的な街の一つです。

シルナナバール川のほとりに広がり、周囲は森に囲まれています。中世の街並みを美しく残す街としてドイツの「ニュルンベルク」や「ローテンブルク」にも匹敵すると言われています。

最後にもう一度、山岳地帯に戻りましょう!

ホルト川の下流にある、この村にはトランシルバニア屈指の保養地があります。

手前に見えるのは元大統領の「チャウセスク」の別荘だった建物です。その向こう側に見えるのは共産党員専用のホテルでしたが、今ではサナトリウムになっています。

多様な文化を持ち中世の雰囲気を色濃く残している

トランシルバニア、そこは中央ヨーロッパの伝統が生き続ける土地なのです。

 

 

今回でルーマニアの旅は終わって次回は地中海に浮かぶ島「マルタ共和国」に向かいます。