ケンケンの夢飛行

シッペイです。性別-男。特徴-食いしん坊。趣味-街めぐり、スポーツ観戦。誕生日1月20日。友達のジュビロ君。仕事は市やチームのPR☺

シェイクスピアの故郷を訪ねて!②

ストラスフォード・アポン・エイボンから北へ約15km.中世の城「ウォリック城」この城の始まりは1,000年以上も前だと言われている。今でも最も中世を感じられる城として人気をはくしている。

16世紀、エリザベス一世のもと、スペインの無敵艦隊に勝利したイングランドは輝かしい黄金時代を迎える。彼女の力が衰えると世の中の秩序は急速に乱れてきた。

ハムレットロミオとジュリエットの中には国の繁栄と荒廃、民衆に残る貧困、のし上がる為の迫力や裏切り、混乱の時代だからこそシェイクスピアの描いた深い感情が人々の心を強く捉えたのでしょう。

ストラスフォード・アポン・エイボンから徒歩で30分程、シェイクスピアはあしげくこの村に通ったと言われる。彼の妻になるアン・ハサウェイが暮らしていた家へ!

農家であったハサウェイ家、昔ながらの茅葺き屋根が美しいこの家では、当時の暮しぶりを垣間見ることが出来る。

読み書きもできない当時ではごく普通の女性であった。結婚当時シェイクスピアは18歳.アンは8才年上の26歳であった。二人は結婚するも結局はシェイクスピアはロンドンで暮らすことになる。その間もアンはこの町に残って二人の子供を育て、彼の親の面倒を見、ひたすらシェイクスピア家を支え続けた。主婦として優秀だったという以外残念ながらよく分かっていない。そもそも、シェイクスピアがロンドンに何故行ったのかもはっきりしていない。

歴史家に出来るのは僅かな記録と記録の間を繋いでみる事だけである。だからこそ想像力が掻き立てられるとも言えるが・・・・・

 

夏の夜の夢

「書を読んでも、話や歴史で聞いても、真実の恋というものは、決して都合よくいったことはないらしい」

解っているのはアンはシェイクスピアの生涯ただ一人の妻だった(普通、当たり前の事)という事だけである。

知られざる彼の人生ドラマがここにあったのかも知れない。!

18歳で結婚したシェイクスピアはアンとの間に3人の子供を授かります。

シェイクスピアがどんな気持ちで故郷を後にしたのか解らない。

しかし彼がこの町を出なければ、素晴らしい作品に出会う事も無かったかもしれないという事です。

ロンドンで脚本家として稼いだお金は故郷「ストラスフォード・アポン・エイボン」に投資し土地と家を買って生涯故郷で過したという事です。

シェイクスピアが生まれた時、洗礼を受けた教会でもある「ホーリー・トリニティ教会」に遺体は妻アン・ハサウェイと共に眠っている。

1616年4月23日.52歳

誕生日と同じ日に亡くなったと言われている。

アンは彼より7年後に亡くなっている。

ソネット集116番

に彼はこんな言葉を残している。

「愛は時の道化ではない。薔薇色の唇や頬は、やがて時の大鎌で刈り取られようとも。愛は移ろう時の中で変わるものではない」

マクベス

「明日が来て、明日が去り、また明日が・・・・時は、こうして小刻みに忍び寄り、最後の一言まで飲み込んでしまう」

お気に召すまま

「人間世界は、全てが 舞台。男も女も役者に過ぎぬ。めいめい登場と退場を繰り返し、一人で幾役も勤めるのだ」

ロミオとジュリエット

「恋人に会うときは、書物から離れるように心が軽く、恋人と別れるときは、登校するときのように心が重い」

ハムレット

「そもそも芝居は今も昔も、いわば自然に鏡を捧げ、善悪美醜、時代の本質を、有りの儘に見せるもの。度が過ぎては、本意に外れる」

得意の憎まれ口はどうした?

道化は?歌は?

皆を笑わせた冗談はどこへ行ったんだ?

もう自分の顔をからかうことさえ出来ないとは

さあ、姫たちの部屋へ行って教えてやれ、どんな厚化粧をしてもいずれはこんな顔になるとな

敬老の日が間近かです。

敬老の日は9月19日ですが、それについて次男が私達老夫婦に食事をご馳走してくれる事になりました。

9月11日(日)夕方6時です。

場所は「江ノ島・「とびっちょ」」でした。

車で30分程で行けます。ほぼ、地元みたいなもんです。かと言って、鎌倉同様頻繁に行く訳ではありません。

孫娘は江ノ電江ノ島終点駅近くの私立中学校に通っているから本当に地元みたいなものです。

日曜日の江ノ島内に車を駐車するのはちょっと苦労!

入れるのは空いている所を探せば何とかなりますが、帰りの出庫が一苦労、鎌倉 〜茅ケ崎の海岸線道路の渋滞で江ノ島から出るのに40分位かかった。

江ノ島から出れば「腰越」の裏道を通りスンナリ帰れました。

江ノ島は橋を渡る信号の所にゲートがあり午後10時になると閉められてしまい、入る事も出る事も出来なくなる。歩きは大丈夫。

渚駐車場の料金は1時間400円ですが上限が2,000円なので5時間以上止めても午後10時以内に出庫すれば2,000円。

さて、本題の夕飯ですが「とびっちょ」と言う店は渚駐車場の正面に一軒、江ノ島神社参道(神社に向かって右側)にもう一軒有ります。

「生シラス」がメインですが、量的?に休日等、完売になることが多いらしい。

釜揚げシラスとなる。

私は釜揚げシラスのトロマグロとネギトロ丼を注文。

大椀の味噌汁と温泉玉子が付いてきます。

値段は1,700〜1,800円といったところです。

4〜5年前なら高い!でしたが、今では「まあ、こんなものか!」です。

完食、丁度腹イッパイになる量でした。

次男家族👪に感謝です。

 

シェイクスピアの故郷を訪ねて!❶



劇作家、ウイリアムシェイクスピアの故郷はイギリスのロンドンから北へ約170kmの「ストラトフォード・アポン・エイボン」と言う町で「エイボン川の辺りの道」と言う意味だそうです。
シェイクスピアは18歳で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚し二人の子供をもうけるも、彼は3人をストラトフォード・アポン・エイボンに残し、ロンドンへと旅立って行った。
解っているのは、アンはシェイクスピアの生涯ただ一人の妻だったということだけである!
そうです。
ストラトフォード・アポン・エイボン


ロンドン、テムズ川の畔に1997年400年の時を経て、ある劇場が復元された。「グローブ座」です。16〜17世紀にかけてロンドンで人気を博した劇場です。
関心を寄せる人が多い理由はウイリアムシェイクスピアが劇作家であり、彼が残した作品は今も世界中で演じられている。
グローブ座は彼の作品の数々が初演された場所だったからです。
当時の造りを再現した木造3階建て、照明の無い時代、演劇は日の光を利用して行われた。
多い時には3,000人もの観客が集まったと言われている。
多くの人々が集まるロンドンは彼がいち早く時代の流れを反映した当時の社会を敏感に感じ取り、その内容を書き上げていたから上流階級や一般の人々にも受けたのである。
ロンドン


シェイクスピアはロンドンで成功を収めた後、再び故郷のストラトフォード・アポン・エイボンへ戻って来た。
ここには世界中から年間50万人もの観光客が訪れて来る。
街中にもシェイクスピアが溢れている。

シェイクスピアの生家

1564年4月長男として生まれた。父親は革手袋の商人として一代で代を成した野心家であった。町の政治にも熱心に係わり、町長に選ばれた事もあった。
幼いシェイクスピアはお金に不自由無く恵まれた環境で育った。シェイクスピアが通ったと言う学校も残されている。当時のグラマースクール「キングエドワードⅥ世校」15世紀に建てられた歴史ある建物は現在も教室の一つとして使われている。
当時の教育としては非常にレベルの高いものでラテン語から旧約聖書の翻訳、朗読文の書き方等、此処で受けた基礎が作品作りに生かされた事は想像に堅くない。
父の事業が失敗し生活はどん底に落とされ、シェイクスピアも授業を受ける事を諦めた。
成功と失敗、富と貧困は彼の作品に深みを与えることになった。街中で出会えるシェイクスピアの作品の登場人物達、人生を舞台に擬えたシェイクスピア
バン・クロフトガーデンには彼の銅像がある。
彼の銅像の周りには哲学、歴史、悲劇、コメディを象徴する登場人物の像が配置されている。





哲学では「生きるべきか死ぬべきか?」で知られるハムレット
マクベスに登場するマクベス 夫人、彼は人間のあらゆる生き様を舞台の中に描くことで人生の意味を問い続けた。
中世の暗黒部分に関わったちょっと変わった博物館
「フォルスタッフ・エクスペリエンス」16世紀前後、チューダー朝時代のイングランドの雰囲気が再現されている。
ペストの流行、飢餓、民衆は常に死💀への恐怖や不安に苛まれていた。そのため、人々は占星術や魔術に頼った。不安な世の中からの救いを求めた。
マクベスには魔女、テンペストには魔術師、夏の夜の夢には妖精、シェイクスピア作品にもこれらは欠かせない要素として描かれている。

ニュルンベルク(南ドイツ)


ロマンチック街道に連なる街ではあるものの話題として取り上げるならば、ドイツ最大の画家の巨匠、アルブレヒト・デューラーの生誕地としてであろう。

15世紀ニュルンベルクで産まれたデューラー(1471年〜1528年)はドイツ最大の画家の巨匠として名を残した。
ミュンヘンに次ぐバイエルン州第2の都市、ニュルンベルクは城壁5kmで囲まれた城塞都市で古くから職人の街として知られている。
およそ1,000年前に丘の上に小さな城が築かれた。
イタリアと北ヨーロッパをつなぐ中継地として役割を果たし町は発展を遂げた。



国立ゲルマン博物館。1853年に開館した。元々の建物は第二次世界大戦で破壊されたが、1993年に完成し再建された。
中世以降のあらゆる文化財を収集して研究し、ドイツの真の姿を次の世代に伝えたいという強い理念が込められている。
60万点に及ぶ品々が展示されている。
見逃せないのが、アルブレヒト・デューラーの作品コレクション。
カール大帝と皇帝ジギスムントの二対の肖像画
年老いた師匠の肖像画、画家の
ミヒャエル・ヴォルゲムート
(1516年)デューラーが45歳の時の作品。



スズ工芸品製作工場が沢山あった。
ニュルンベルクで最も古い教会
ゼーバルト教会。13世紀に建てられた。
美しの泉は40体の肖像が並ぶモニュメント。
カイザーブルクは12世紀に城の基が築かれた。15〜16世紀にかけて現在の姿となった。







アルブレヒト・デューラー・ハウス・・・・・亡くなる迄の20年をこの家で過ごした。
1509年40歳を前にして4階建ての家を購入した。

🦏サイの絵は木版画1515年作)
メレンコリア(1514年)銅版画の代表作




ローテンブルク(南ドイツ)❷

1552年・・ブランデンブルク兼クルムバッハ領伯アルブレヒトの命により、町は対皇帝のシュマルカルデン同盟への加入を強制される。領伯アルブレヒト軍の敗北により町ローテンブルクも降伏、金貨にて8万グルテンの高額が戦争賠償金として支払われる必要があった。

1554年・・町の主教会、最終的にプロテスタント派となる。

1572年・・ローテンブルクの著名な建築家レオンハルト・ヴァイトマンの指揮下、火災に遭った市庁舎部の再建工事が開始され、その他、ギムナジウム校舎、建築主任の館、シュピタール区の騎馬巡視官の館、並びにシュピタール・バスタイ等が同主任により建造される。
同時に、戦時苦渋から市民の生活を守る意味で、町中各所の井戸や製粉所ロス・ミューレが完備される。

1608年・・福音派の領主や町、連合ユニオンを結成。

1618年・・同ユニオン、当ローテンブルクで集会。
30年戦争の勃発・街は戦費、軍隊の収容、及び冬期宿営の任務を負う。町周辺の各村は戦時紛れの粗暴な集団により、ヒガイが多く出た。

1631年・・スエーデン王グスタフ2世アドルフ(ハースブルグ家の東海侵入を阻止する為の反皇帝軍)、当地に滞在後、小守備隊を残して他方へ進軍。後続のカトリック派皇帝軍(その総司令官はテリー将軍)の冬期宿営の願いは拒否され、スエーデン・市民軍とテリー軍の間に攻防戦が繰り広げられる。短い対戦の後、皇帝軍の多勢並びに町側の戦死者300人を数えるに至って、市壁開放となる。その直後、皇帝軍の占領下、町が破壊や略奪禁止命令から救われた事は、大呑みの長「マイスター・トゥルンク」の伝説、劇化に今も残っている。
皇帝軍の占領下により、住民はその賦課に苦渋。

1632年・・将軍テリーの軍隊は撤去するが、それに代わってスエーデン王が再来する。(この年、テリー将軍は4月、グスタフ・アドルフは11月に戦死)。



中世の武具を扱っている店





昔からの給水設備

回廊への登り口











ローテンブルク(南ドイツ)①


ローテンブルクはロマンチック街道のメイン観光の一つで、最後の締めは「ノイシュバイン・シュタイン城」となります。
ロマンチック街道の記述ではローテンブルクを簡単に扱いましたが、今回はローテンブルクについて詳しく(写真主体)述べていきましょう。

ローテンブルクは1274年帝国都市として独立した。
1311年・・聖ヤコブ教会の起工(完成は1484年)
1339年・・ドイツ皇帝ルードヴィッヒ・デア・バイヤーがローテンブルクに独立同盟権を認与
1352年・・帝国からの自由・
独立並びに刑事裁判権を獲得。
1356年・・地震により、グラーフェンブルグとライヒスブルクの城をはじめ、町の被害甚大。
地震後、タウバー川谷上に二重橋ドッペル・ブリュッケが建設される。
14世紀・・ドイツ皇帝アルブレヒト1世からシュピタール(救護院)地区の市壁内組み入れ工事の許可を受ける。これにより、市壁リングは第一期の拡張から1,000mが加算され3,400mとなる

NHK世界ふれあい街歩き」の映像より
ローテンブルク駅ホーム







1400年前後・・近在のウルム、ネルトリンゲン及びディンケルスビュール傭兵隊長をも兼任する市長ハインリッヒ・ドップラーの許、ローテンブルクは大いに繁栄、同市長の業績はブルク・ガルテンのブラシウス礼拝堂の改装工事、温泉浴場、ドップラー小城、等の建設に観られる。
1408年・・ニュルンベルク城守フリードリッヒとの長年に亘る勢力争いは、市街区域の荒廃及び町にとって不利な講和で集結。同年、トップラー市長からの王ヴェンツェル宛の書状が、新しくドイツ王に選ばれたルプレヒトの手に入るや、市長は陰謀のかどで身内の者二人と共に市庁舎の地下牢に監禁される。
トップラー市長は監禁後3ヶ月で獄死、他の二人は釈放となる。
1450年・・近在領主との争いに終止符が打たれ、都市同盟は解体となる。
1455年・・町の職人組合、市議参政権の強奪に成功。
1501年・・ゴシック様式の市庁舎が炎上し、その東棟が焼け落ちる。
1520年・・ユダヤ人の最終的追放。ユダヤ教会及び同墓地は破壊の憂目をみる。既に1350年、ユダヤ人の迫害が有り、今の広場カペッレン・プラッツを中心に居住のユダヤ人は、町北の通りユーデン・ガッセへと移住を強いられる。
1525年・・聖像破壊論者Dr.カールシュタット、粉挽き職人達を煽動し、コーボルツェラー小教会はその襲撃の的となる。
農民戦争,ローテンブルクは農民軍の指導者フロリアン,ガイアー側で参戦するが、シュヴァーベン同盟軍に惨敗。当年6月30日アンスバッハ領伯カシミールの裁決が広場マルクトプラッツで行われ、17人が公開断首となる。煽動の張本人カールシュタットのみ、逃亡して刑を免れる。多額の賠償金が町に課せられる。
福音派のミサ聖祭が再び導入される。

ドイツ国内からの旅行者で雰囲気を出す為、中世の衣装を纒って見物している。








一年中クリスマスグッズが売られている。



街中の鉄製看板


マイスタートゥルンクの逸話?の絵え!ー➰