ケンケンの夢飛行

シッペイです。性別-男。特徴-食いしん坊。趣味-街めぐり、スポーツ観戦。誕生日1月20日。友達のジュビロ君。仕事は市やチームのPR☺

空撮紀行・ルーマニア・トランシルバニア地方

アルバ・ユリアの街で真っ先に目に飛び込んでくるのは旧市街を囲む星形の防壁です。

アルバ・ユリアは2,000年以上の歴史を誇る街で1584年から100年近くの間トランシルバニアの首都となっていた。

アルバ・ユリアとは広い土地という意味です。

13世紀の末にはハンガリー国王のもと、この街でトランシルバニア最初の舞台が上演された。一時、荒廃した時もあったがトランシルバニアを代表する都市としての地位は長い間揺らぎませんでした。

そして1918年にこの街で開かれた国民議会でトランシルバニアルーマニアの合併が決まったのです。

トランシルバニア地方の建物はほとんどがゴシック様式ですが、アルバ・ユリアにはルネッサンス様式やバロック様式の建物が目立ち独特の雰囲気を創り出しています。

アルバ・ユリアを囲む防壁の長さはおよそ12kmになる。

ルーマニアと合併したトランシルバニアでしたが1940年には北部がハンガリーのものとなりました。

但し、第二次世界大戦後再びルーマニアに返還されました。

トランシルバニアは いくつもの山脈に囲まれた地域です。その幾重にも連なる山々がこの地方を守る防波堤となっていました。

ごつごつとした岩山、透き通った川、そんな大自然の中にはヨーロッパでは珍しい動植物が繁殖しています。

ルーマニアには歴史的経緯からルーマニア人のほかにハンガリー人やドイツ人が大勢暮しています。

国民の多くはルーマニア正教を信仰していますが、他にカトリックプロテスタントの信者もいます。

ルーマニアの主な農産物は

小麦、トウモロコシ、ワイン等です。

チャウセスク政権の時代、農業は危機的状況に陥りましたが、革命後は次第に持ち直し農業人口は以前よりも増えています。

 

空撮紀行・ルーマニア・トランシルヴァニア地方❶

トランシルヴァニアとは「森の向こう」と言う意味

この言葉通りかってこの一帯は深い森に覆われていました。

遥か昔、人々はこの森がもたらしてくれる豊かな恵みに惹かれてこの地に住みつくようになった。

トランシルヴァニアでは今でも伝統的な方法に依る農業が行なわれている。その為、荷車を引く牛や馬の姿もごく普通に見る事ができる。このようなゆったりとした時の流れがトランシルヴァニア独特の魅力を創り出している。

シギショアラの街が近づいてきました。ここではトランシルヴァニアで最も背の高い城「フネドアラ城」がある。見るからに中世の城といった外観を持つこの城はでんせやお伽話の世界が突然目の前に現われたかのような雰囲気です。

この城が建てられたのは13世紀、この頃は未だ塔はありませんでした。

その後、何度かに亘る改築が行なわれて現在のような形になった。実戦用の機能と建築物としての美しさを備えた素晴らしい城です。

18世紀、ハプスブルク家支配下で300近くの城が壊されましたが幸いこの城は破壊を免れました。

ルーマニアの農民達が反乱を興した時には支配者であった貴族がこの城に逃げ込んだ事もあった。

12世紀トランシルヴァニア地方はハンガリー人によって支配されていた。そしてハンガリーの王は領土を治める為、ザクセン人等の異民族をこの土地に入植させた。その結果、この地方にはいくつもの文化が混ざり合った独特の文化が育ちましたが民族間の摩擦はいつでも大きな社会問題となっている。

 

 

 

ヨーロッパ空撮紀行(ドイツ・ミュンヘン)➋

王の広場

シュバービンクはフランスのモンマルトルやロンドンのソーホーと並ぶヨーロッパの芸術の中心です。

トーマスマンを初め、数多くの作詞家や芸術家が集まって独特の文化を形成した。

イーザル川の西に広がるイギリス庭園、幅1km長さ4kmに及ぶ広大な庭園です。園内には日本の茶室や中国の棟等があり、オリエンタルな雰囲気が味わえます。夏になるとビアガーデンが開かれ、ビール好きのミュンヘンの人々で賑わいを見せます。

平和の天使像

バイエルン州議会の本部。

もともとは19世紀に高等教育の為の機関として設立されたもの。

ヨーロッパ特許局

ドイツ博物館、イーザル川の中洲に建つこの博物館は1925年に開館、飛行機、船舶等、科学技術をテーマにした展示を余す事無く見る事が出来る。

リンツレゲンテン劇場

ミュンヘンには49の劇場が有ります。その中でもこのブリンツレゲンテン劇場は非常に古くからの伝統が有ります。

バイエルン映画スタジオの敷地はおよそ30万平方メートル、1919年以来ここで数多くの映画が撮影されてきました。

高さ18mの女神像、バヴァリアの像は頭部まで登ることができ、ミュンヘン市内のパノラマを見渡すことができる。

ミュンヘンオリンピックを記念して建てられたオリンピック塔、ドイツで一番の高さを誇ります。

このスタジアムはおよそ7万人を収容できるオリンピックスタジアムです。

今ではミュンヘンの主要なスポーツイベントに利用されている。

サイクリングホール

オリンピックスタジアムから西へ向かいます。

ニンフェンブルク城は1664年に建築が始まり、19世紀半ばまで繰り返し増改築が行なわれてきました。ここは戦争による被害から免れ、当時の美しい姿を今でも残しており、妖精の城とも呼ばれている。

城の敷地の中には広大な植物園が有り、温室には数多くの熱帯植物の他、様々な種類の蘭を見る事が出来ます。

ミュンヘンの中心から北へ15kmのシュライスハイム城、18世紀初頭に建てられドイツ代表のバロック様式の建物として有名です。

夕闇がミュンヘンの街を覆います。

再びオリンピックスタジアムに戻ってきました。

この日はコンサートが行なわれていました。オリンピックのあとコンサートだけではなくドイツサッカーリーグ、ブンデスリーガーの試合も行なわれています。

ここは昔と変わらず観客を熱狂の渦に包み込んでいます。

街に夜のトバリが下りました。

丁度、酒場が混み合う時間です。昔からビール好きで知られるミュンヘンの人々、今も年間一人当たり200Lのビール🍺を消費すると言います。

ドイツ第三の都市ミュンヘンは古き良き時代の流れを数多く残しながら近代都市としてさらなる発展を続けています。

ヨーロッパ空撮紀行(ドイツ・ミュンヘン)❶

ドイツ第3の都市、ミュンヘン

経済都市の中心でありながら古き良き時代の面影を残している。

第二次世界大戦で60回以上もの爆撃を受け大きな損害を被った。しかし、その後町並みはほぼ昔どおりに修復され復興した。

街のシンボル聖母教会

この教会の塔が遠くからも見えるように市内の中心部の建物は高さ36m以下にするように規制した。

市の中心部マリエン広場にある新市庁舎、ここには

ドイツ最大の仕掛け時計があり、ミュンヘン観光の名物となっている。

12世紀初めに建設されたバイエルン州立歌劇場

リヒャルト・ワーグナーのオペラ、ニュルンベルクのマイスタージンガートリスタンとイゾルデ等が初めて上演された事で有名です。

歌劇場の北、ホーフガルテンと呼ばれる公園、もともとは18世紀宮廷の傍らにあった野菜畑であった。

この通りはミュンヘンの主要道路の一つルートヴィッヒ通り、凱旋門等中世の時代を忍ばせる建物が建ち並び訪れる人々の目を愉しませてくれる。

凱旋門

ルートヴィッヒ・マクシミリアン大学、通称ミュンヘン大学と呼ばれ1472年国王のルートヴィッヒ1世によって創設された。現在は6万人以上の学生が通っている。

 

ヨーロッパ空撮紀行(ブルガリア➌)

バルカンという名そのものが山を意味している。

ブルガリアは事実、山の多い国です。

バルカン山脈は国を2つに分断するかのようにブルガリア北西部から黒海へと延びている。

シプカ国立公園は1877年に始まったロシア・トルコ戦争の勝敗を決する戦いが行なわれた場所、山の頂上に建てられた記念碑はその戦いで命を落としたロシア兵とブルガリア義勇兵を称えたもの。

894段の階段を登って行くとバルカン半島を遥か先迄見渡せる素晴らしい景色が待っている。

12世紀から14世紀にかけて第2次ブルガリア王国の首都だったヴェリコタルノヴォ、その周辺地域には沢山の修道院がある。

修道院は学問や文化の発展に大いに貢献してきた。

14世紀ここはブルガリア屈指の重要な修道院だったが1913年の大地震で大部分が破壊された。現在、この歴史的建造物を復元する計画が持ち上がっている。

ツァレヴェッツの丘からはヴェルコタルノヴォが見渡せます。

丘の頂きにそびえ立つのは教会です。第2次ブルガリア王国の時代には、この丘全帯が宮殿として使われていた。

丘の西側と南側には今も古い町並みが残っている。

森の中のあちこちに古い修道院が見え隠れする。

1833年に建設されたソコルスキー修道院、昔は小さな教会だったが19世紀に改築されて修道院になった。

1868年に中庭に造られた噴水はオスマントルコ軍の犠牲となった8人の兵士達を象徴している。

ヨーロッパ、スラブ、アジアの文化が混ざり合った独特の雰囲気。

それがブルガリアの深い魅力を形造っている。

ブルガリア編は修了。

ヨーロッパ空撮紀行(ブルガリア➋)

国立文化宮殿

コンサートホールや展示会場等が集った総合文化施設

屋上にはオープンテラスのカフェがあり、のんびりとくつろぐ事ができる。晴れた日には、ここからソフィアの街を一望できる。

国会議事堂広場にある解放者記念像、モデルはロシア皇帝アレクサンドル二世、

ブルガリアオスマントルコから解放した英雄として祀られている人物です。

しかし、ようやく独立を勝ち獲った後も列強諸国の思惑に翻弄されてきた。

2つの世界大戦ではドイツ側に付いて敗戦国となった。1946年からはソビエトに従って社会主義陣営に入りました。

ブルガリアにとって20世紀は正に激動の時代でした。

聖ニコライ・ロシア教会

この教会はアレクサンドルネフスキー教会と同じ建築家によって1913年に建てられた。

ソフィアを少し離れると、美しい田園風景を観る事ができる。

ソフィアから200km程北にあるベログラドチクは奇妙な形をした岩山が点在する地域です。

町を見下ろすように建つのはベログラドチク要塞。

この地域で最も高い岩山の上に建ち多くの防壁を張り巡らせていて難攻不落の要塞と言われていた。

東の部分は古代ローマ帝国の手によって建設されていた。

ブルガリアには天然で大きな湖はほとんど無い。大部分は人工の貯水池で、この

湖もその一つ。

バルカン山脈の麓にシプカと言う小さな村がある。

壮麗な美しさを持つこのシプカ僧院は1885年から20年近い歳月をかけて造られた。

ブルガリア解放の為に闘った兵士達を称える為に建てられたもの。

ヨーロッパ空撮紀行(ブルガリア)❶

首都ソフィア〜バルカン山脈

ブルガリアの首都ソフィアの人口は約120万人、この街はブルガリアの文化、経済の中心地。

周辺地区には社会主義時代の名残りである集合住宅が建ち並んでいる。

街の中心部には数多くの歴史的建造物がある。

様々な民族が混ざり合う様子はこの国の複雑な歴史を物語っている。

アレクサンドルネフスキー寺院

多くの観光客が訪れるこの街の名所の1つです。

1878年ブルガリアはロシア・トルコ戦争の結果、オスマントルコの支配から開放された。

この寺院はブルガリアの独立に貢献し、戦死したロシア人達を弔う為に造られました。

1882年に建設が始まり完成までに40年もの歳月を要した。

曲線を使ったなめらかなデザインが威圧感を和らげている。

寺院の下にはイコンと呼ばれる宗教画が描かれた博物館がありブルガリアの宗教技術を見る事が出来る。

聖ゲオルグ教会はソフィアにある最も古い建造物。

四方をビル🏢で囲まれているが内部に繋がるルートがいくつも設けられている。

煉瓦造りの教会は4世紀に建てられたもの。一時イスラム教の寺院として使われるようになった事もあった。

中央のドームは高さ15m.直径は10mある。内部に描かれたフレスコ画は保存状態こそあまり良くないものの、この建物の長い歴史を物語る貴重な資料となっている。

又、教会の裏手にはローマ時代の遺跡も残っている。

ソフィア一番の繁華街ヴィトシャ通り、近代的な建物と古い建造物が違和感なく共存している。

右側に見える緑の屋根の建物はブルガリア最大の歴史博物館

ヴィトシャ通りには様々な店が並び資本主義らしい賑わいをみせている。

しかし、1989年末に共産党のドドル・ジフコフ議長、及び共産党書記長辞任による共産党独裁政権が崩壊するまでブルガリア社会主義陣営の一員であった。

1989年から始まった改革はブルガリアの社会を根底から覆した。ブルガリアの人々は今も新しい姿を模索しているところです。