ケンケンの夢飛行

シッペイです。性別-男。特徴-食いしん坊。趣味-街めぐり、スポーツ観戦。誕生日1月20日。友達のジュビロ君。仕事は市やチームのPR☺

クロアチア🇭🇷の旅(アドリア海の真珠、ドゥブロヴニク)

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321161655j:plain
クロアチアの旅の最終目的地であるドゥブロヴニクを尋ねてみましょう‼
DUBROVNIK
中世都市ドゥブロヴニク市街は今日でも城塞によって取り囲まれている。この城塞はドゥブロヴニク自由都市として守ってきた。
アドリア海沿岸の山と海の間に位置するドゥブロヴニクは今日、50,000人の住民を抱えるクロアチア最南端の都市として栄えている。
城塞に囲まれているこの都市は中世には独立共和国だったこともあり、今日なお中世の面影を色濃く残しており1979年にはユネスコより世界遺産の指定を受けた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321163128j:plain
ドゥブロヴニクは地中海性気候で温暖な気候地域であるということと、中世より諸外国との貿易によって栄えていたという土地の性格がら都市では様々な地域の植物を見ることができる。
なかでも杉や松といった針葉樹林、月桂樹、地中海特産の薬草ローズマリーを多くみることができる。一年のうちおよそ250日以上が晴れの日を記録し、年間の降水量は非常にわずかで平均気温は17度である。夏の間の平均気温は常に26度以上を維持し冬では1月が最も寒い月であるが、それでも7度以下の気温になる日はめったになく雪❄️が降るなどという事は非常にまれである。このような温暖な気候によりドゥブロヴニクでは一年のうち4月から10月にかけて海水浴を楽しむことができ、この間の毎年の雨の日の記録は14日程である。
又、アドリア海沿岸特有の強い北風(ブーラ)は都市を見下ろすスルジェ山によって防がれ、暖流の影響で起こる強い南風(ユーゴ)はドゥブロヴニクの向かいに位置するロクラム小島によって防がれておりこのような土地性とアドリア海沿岸の温暖な気候によりこの都市は同じ地中海性の気候地域であるギリシャアテネやスペインのバロセロナ、フランスのカンヌの気候と比べてみても冬でも夏でもこれらの地中海沿岸都市よりも温かく、快適な観光を楽しむことができる。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321165844j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321165944j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321170152j:plain
ドゥブロヴニク共和国の名前が文書に現れるのは1189年の文書の中であり今日この文書が共和国を記した最古の記録とされている。1272年の文書の中には海外貿易や諸外国との政策、また共和国を統治するための法などと共にこの中世自由都市ドゥブロヴニク共和国の名を見ることができる。866年から867年にかけてドゥブロヴニク共和国はビザンチン帝国の影響を受け支配下に15カ月間陥った。また1205年から1358年の間には当時アドリア海沿岸地域に巨大な権力を誇っていたイタリアのベネチア王国の統治下におかれていた。ベネチア王国よりその後自由を獲得した共和国はクロアチアハンガリー王国(中世の時代は現在のクロアチア共和国ハンガリー共和国のもとにあった)にドゥブロヴニク共和国、ラグザ共和国という名を登記し自由都市として独立を果たした。トルコのオットーマン帝国がこの地域を治めていた時代にはこの小さな共和国は市街を取り巻く堅固な城塞によって守られていた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321215748j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321215837j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321220008j:plain

共和国内には1301年にすでに市民へ医療ケアが紹介され1347年には薬局が創業された。
薬局が創業された1347年には病院も建てられ1377年には世界初の検疫局が開かれた。
1434年には捨て子のための施設が創設され1436年には共和国の水道設備が整えられた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321220832j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321220939j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321221023j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321221108j:plain

1667年にはこの共和国の大惨事でもある大地震が起き都市の建築物がほとんど全滅し、歴史を綴る多くの貴重な文書などが灰と化してしまった。
19世紀の初めにはフランスのナポレオンが率いる海軍の攻撃により再びドゥブロヴニク共和国は独立維持の危機に立たされ、一時的に統治下に陥ったが1808年1月31日に独立を果たした。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321222029j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321222115j:plain

ユーゴスラビア連邦共和国時代、特に第二次世界大戦中のファシストの強力な支配下のもとこの中世都市は難しい時代をすごさなければならなかった。しかしながらこの中世都市はこの土地に古くから伝えられている「自由は金で💰買える物でもないかけがえのない物である。」という中世自由都市の気風を持ち続けいつの時代も困難を乗り切ってきたゆるぎない歴史を持っている。また1991年、1992年には旧ユーゴスラビア連邦共和国で起きた紛争により都市では多くの紛争があり、隣国するモンテネグロユーゴスラビア連邦共和国とクロアチア共和国の兵士💂の間で市街では闘争が見られ多くの者がその命を落とした。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321223639j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321223815j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321223940j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190321224057j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322165849j:plain
このロビリィエナッツ砦は市街を全長37mの硬い岩によって守っている。この砦上からは12m先の外部からの侵入者を攻撃することができ、中世にはその威力を諸外国に誇っていた。

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322170415j:plain
このドゥブロヴニク市街の城塞で最も高いミンチェタ塔はルネサンス期に市街の地元職人やその時期最高の建築士や職人達の手によって14世紀から15世紀にかけて築き上げられ市街の有名な風景として現在も形を留めている。

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322171258j:plain
ピレ門。市街へ入る西の玄関口として14世紀から16世紀の間に築かれた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322171814j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322171948j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322172033j:plain
プラザは市街で最も有名な大通り。1667年に起きた大地震後より今日の姿を留めている。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322172426j:plain
この大規模なオンファリオの大噴水は1438年にイタリア、ナポリの設計士によりドゥブロヴァチカ川を水源とし市街に水がもたらされるように設計された。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322172950j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322173035j:plain
市街の城塞に隣接して聖クララ修道院が14世紀の間にかけて建てられた。又、1434年には建物の一部が孤児院としても使われていた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322173555j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322173632j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322201040j:plain
ドゥブロヴニク市街の長い歴史を思わせる古い屋根瓦と緑で覆われているロクラム島

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322201353j:plain
ドゥブロヴニク市街特有の数多くある階段に続く細長い道
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322201613j:plain
ブローチェ門。この門は15世紀に市街へ入る東の玄関口として城塞に築かれたアシモン塔の上に築かれ外部からの市街への侵入を防いでいた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322202041j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322202142j:plain
この旧市街の港はかつて世界の大海へ向けて船が出航していた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322202442j:plain
今日みることができるこのドゥブロヴニクの被昇天の聖母マリア大聖堂はイタリア、ウルビナの建築家により18世紀に築かれた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322202805j:plain
市街のドゥブロヴニク.ストゥラドゥンとオーランドの多角柱は忘れがたい風景の一つである。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322203112j:plain
このゴシック.ルネサンス様式の建物は中世の時代にドゥブロヴニク共和国を治めていた統領のために15世紀に築かれた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322203452j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322203532j:plain
ドゥブロヴニク共和国を治めていた統領の為の建物の出入り口部分と書斎
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322203816j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322203852j:plain
このバロック様式の守護神聖ブラホ教会は1715年にイタリアの建築士によって建てられた。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322204300j:plain
ラクルム小島
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322204441j:plain

ドゥブロヴニク市街を見下ろすスルジュ山にあるこの十字架はドゥブロヴニクの街、そこに住む人々の試練、プライドのシンボルである。

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322204814j:plain
ラパードに16世紀からあるルネサンス様式のペーター、ソルコチェビッチ城は夏の期間、テラスや庭園を備えた観光客用の豪華なレジデンスとなっている。
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322205509j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322205638j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322205731j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322205829j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322205925j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210032j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210124j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210233j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210336j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210430j:plain
f:id:ken-jiiji-itohkun:20190322210535j:plain

f:id:ken-jiiji-itohkun:20190323075359j:plain