1552年・・ブランデンブルク兼クルムバッハ領伯アルブレヒトの命により、町は対皇帝のシュマルカルデン同盟への加入を強制される。領伯アルブレヒト軍の敗北により町ローテンブルクも降伏、金貨にて8万グルテンの高額が戦争賠償金として支払われる必要があった。
1554年・・町の主教会、最終的にプロテスタント派となる。
1572年・・ローテンブルクの著名な建築家レオンハルト・ヴァイトマンの指揮下、火災に遭った市庁舎部の再建工事が開始され、その他、ギムナジウム校舎、建築主任の館、シュピタール区の騎馬巡視官の館、並びにシュピタール・バスタイ等が同主任により建造される。
同時に、戦時苦渋から市民の生活を守る意味で、町中各所の井戸や製粉所ロス・ミューレが完備される。
1608年・・福音派の領主や町、連合ユニオンを結成。
1618年・・同ユニオン、当ローテンブルクで集会。
30年戦争の勃発・街は戦費、軍隊の収容、及び冬期宿営の任務を負う。町周辺の各村は戦時紛れの粗暴な集団により、ヒガイが多く出た。
1631年・・スエーデン王グスタフ2世アドルフ(ハースブルグ家の東海侵入を阻止する為の反皇帝軍)、当地に滞在後、小守備隊を残して他方へ進軍。後続のカトリック派皇帝軍(その総司令官はテリー将軍)の冬期宿営の願いは拒否され、スエーデン・市民軍とテリー軍の間に攻防戦が繰り広げられる。短い対戦の後、皇帝軍の多勢並びに町側の戦死者300人を数えるに至って、市壁開放となる。その直後、皇帝軍の占領下、町が破壊や略奪禁止命令から救われた事は、大呑みの長「マイスター・トゥルンク」の伝説、劇化に今も残っている。
皇帝軍の占領下により、住民はその賦課に苦渋。
1632年・・将軍テリーの軍隊は撤去するが、それに代わってスエーデン王が再来する。(この年、テリー将軍は4月、グスタフ・アドルフは11月に戦死)。
中世の武具を扱っている店
昔からの給水設備
回廊への登り口