ケンケンの夢飛行

シッペイです。性別-男。特徴-食いしん坊。趣味-街めぐり、スポーツ観戦。誕生日1月20日。友達のジュビロ君。仕事は市やチームのPR☺

ロマンチック街道列車旅(南ドイツ)❿

今回は「ニュルンベルク」「アウグスブルグ」「フッセン」でこのロマンチック街道の旅は終わりです。






アウグスブルグは紀元10年頃に古代ローマの属員都市として建設された。
イタリアとドイツの交易の中心地として栄えた。それを支えたのが巨大商人「フッガー家」であった。フッガー家によって造られたので、フッゲライという世界で初めての修道所が残っている。
1519年にフッガー家ヤコブ二世はイタリアで教育を受け、芸術にも理解を示したりして、慈善の為に福祉住宅フッゲライを創った。
今でもこの住宅に人々が住んでいる。

ツェツツラー宮殿の中に州立ギャラリーがある。
アルブレヒト・ディユーラー作
ヤコブ・フッガー」等

1518年に宗教改革者ルターが宿泊したとして知られる「聖アンナ教会」
教会内には「ルター」の肖像画が飾られている。

ヴィース教会はロココ様式の最高傑作と言われている。





では、最終目的地「フッセン」から「ノイシュバイン・シュタイン城」を目指します。




ノイシュバイン・シュタイン城は「ルードヴィッヒ2世」が建てた城で彼はワーグナーを愛し、そのオペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」等の
題材を元に内装を施し、寝室には「トリスタンとイゾルデ」等の絵を描かせた。
完成して王が居住したのは170日であり、不審な死を遂げた。
1886年6月10日ミュンヘンの裁判所から「王」に相応しくないという判決を受け、王は3日後に謎の死を遂げた。







ロマンチック街道列車旅(南ドイツ)⑨

ローテンブルクはロマンチック街道のハイライトとなる場所です。
1,274年帝国都市として自立した。
宗教改革の時代には農民戦争、
30年戦争ではプロテスタント側で戦い敗北した。この敗北で有名なマイスタートゥルンクのワインの一気飲みが行われた。
マルクト広場の市庁舎の仕掛け時計で毎日、定刻になると、このマイスタートゥルンクの儀式の様子の人形動作が演じられる。
一年中クリスマスツリーのグッズ販売が行われていて見学する事が出来る。
鉄製の看板が印象的で各店に飾られている。





ディンケルスビュール
琥珀の道沿いに有り、古くから宿場町として栄えた。街は第二次世界大戦の戦禍をあまり受けなかった為、昔ながらの木組みの家が多く残っていて中世の面影が良く残っている。



ネルトリンゲン













ロマンチック街道(南ドイツ)列車旅行⑧

まず、バード・メンゲントハイムに寄ります。
温泉と言う意味のバード、タウバー川沿いの渓谷に沿った温泉街。
ヨーロッパでは医療として温泉を飲む習慣がある。水飲み場が各地に存在する。
1826年に羊飼いが偶然温泉を見つけた。街は温泉保養地として発展した。
ここの温泉は硫酸マグネシウムを含み、消化器系の病気に効く成分が含まれている。



ドイツ騎士団城、十字軍の流れをくむ騎士団で、この城は騎士団の団長の宮殿、1525年に拠点となった。
1410年のタネベルクの戦いの図


12世紀に建築されたホーエンボーデ家の宮殿、ヴァイカースハイム、現在のようなルネッサンス様式の宮殿になったのは16世紀以降の改築によるもの。
基本はルネッサンスだが、時代の影響でバロックロココ様式の影響も受けている。



ヘルゴット教会は街から南へ1.5km程行った所にある。
中世の彫刻家リーメンシュナイダーの傑作、マリア祭壇が有る。彼は彫刻を1505年から1510年の5年の歳月をかけて創った。
教会の向かいに指抜き博物館が有る。


ロマンチック街道列車旅(南ドイツ)⑦

初版は2018年7月14日〜18日のNo.1〜No.4.8月3日、5日の
「その5」「その6」で海外旅行に参加した時の想い出でを記したものです。参考に!

今回は列車旅、欧州列車旅行等からの抜粋です。
ロマンチック街道のメインルートはヴィルツブルグを起点としてローテンブルク、ディンケルスビュール、ネルトリンゲン、アウグスブルク、フッセン、が一般的です。
約 350kmの道程でこの街道はローマ時代、既に存在し、当時は「琥珀の道」と呼ばれていた。バルト海で回収された琥珀はこの道を通って南に運ばれた。ロマンチック街道と命名されたのは戦後になってからの事。
我々が旅行で行った時は
フランクフルト、リュウデスハイム、ライン下り(ローレライの岩)、ザンクト・ゴアで下船、ハイデルベルク(ロマンチック街道から外れた学園都市)、マンハイム、ヴィルツブルク、ローテンブルク、フッセン(ノイシュヴァンシュタイン城)、リンダウ(ボーデン湖畔)、リヒテンシュタイン、インターラーケン、ジュネーブ、パリ、のルートであった。

では列車旅に出発しましょう。



 


まず、街道の起点となるヴィルツブルグですが、ここは紀元前1,000年頃にケルト人が砦を築いた時に始まったと言われている。その後8世紀半ばに司教舎が置かれ、交通の要衝として発展した。
現在は観光の中心都市として、又、フランケンワインの主要生産地として賑わっている。

マイン川の丘の辺りに建つヴィルツブルグのシンボルである
マリエンベルク要塞は旧市街のアルテ橋の向こうにそびえ立つ。当初はケルト人の要塞であったが、13世紀半ばに司教が此処に城を築いた。1719年迄歴代の司教が此処を住居としていた。
よって此処は同時に神聖ローマ帝国の要塞でもあった。
500年程の間、マリエンベルク要塞を居城としていた司教の中で、初めて街に下りて宮殿を造ったのがシェーンボルン司教である。ドイツで現存する城の中での豪華さでは1or2を争う程のものだと言われている。


あまり知られていないが、ヴィルツブルグにはシーボルト博物館が有る。
多くの人がシーボルトはオランダ人だと思っているが、彼はドイツ人で1796年に此処ヴィルツブルグで生まれた。1822年にオランダの東インド会社に医師として入社した。1823年にジャカルタから出島にやって来た。






フランケン地方の名物と言えば、フランケンワインで辛口のコクのあるワイン。独特の形をしたボトルに入っている。
ワイン醸造所ビュルガーシュピタール
特別貯蔵庫には100年以上前のワインが貯蔵されている。

マイン川の斜面にブドウ畑が広がる。南に面した斜面50度〜60度の傾斜がある。これはマイン川の開けた谷に面しているので冷たい空気が早く抜ける。ブドウ作りには最高の条件が揃っている。










アルペン紀行(南ドイツ)②

プリーンより南東に約50kmにベルヒテスガーデンが在る。
ドイツとオーストリアの国境沿いでアルペンの山々に囲まれた静かな町。ドイツ山岳の拠点、景勝地であり、保養地としても有名 。

この町を見下ろすケールシュタイン山頂に見える建物はヒットラーの別荘「ケールシュタインハウス」である。
バス🚌で山頂付近迄登り、そこからトンネルに歩いて入り、エレベーターホールに向かいエレベーターで別荘近く迄上がる。
エレベーターは当時のままの内装。山頂迄30秒


標高1834m山頂からはバイエルンの山岳風景が広がる。
別荘はヒットラー50歳の誕生日にプレゼントとして建てられた。別荘は連合軍に爆撃され破壊されたが一部が残り、再建されて、今はレストランとして営業している。
当時のまま残されている暖炉はイタリアのムッソリーニからプレゼントされたもの。
ヒットラーの愛人エバの妹が此処で結婚式を行った。



麓に在る「ホテル・エーデルワイス」は保養施設を充実させたホテルである。
屋上ではジャグジーを楽しみながら景色を眺め、屋内にはプールがあり、エステも完備されている。従業員は約100名。



ツークシュピッツェ」標高2,962m(ドイツ最高峰)この山を駆け登る登山列車がある。
バイエルン
ツークシュピッツェ鉄道」である。
列車が出発する町「ガーミッシュ・バーテンキルヒェン」はミュンヘンから南西に約80kmの所に在る。



サスペンダー付きの皮の半ズボンを履いた男性、この衣装はレーダーフォードと言われる伝統的なもの。

この地方はチーズ作りが盛ん、チーズ専門店「ディー・シャウケーゼライ」
この店のチーズは「ディアチーゼ」と呼ばれチーズを黒ビールで洗った珍しい物。
チーズを作るにはミルクに「デンネット」と呼ばれる酵素を加え、ミルクを凝固させる。
「デンネット」とは牛の胃から採れる酵素である。

登山列車は「ガーミッシュ・パーテンキルヒェン駅」を出発して「クロイツェック駅」を抜け「アイプ湖駅」を通り終点の「ツークシュピッツェプラット駅」に行く。頂上付近は勾配のきついトンネルの中を走る。
アイプ湖を目当てにこの列車を利用する常連客も多い。
アイプ湖は今から約4,000年前に出来たと言われる湖。
アイプ湖を過ぎると一気に勾配がきつくなる。
標高2,300m地点でトンネルに入る。トンネルは約5km続き頂上に向って延びている。トンネルを走ること約10分で終点に到着する。
標高は2,558m
ツークシュピッツェの頂上にはここからロープウェイで登る。
約5分で頂上駅に到着。
頂上からはバイエルン州オーストリア・チロル州に跨るアルペン地方の山々を観る事が出来る。
帰りは「クロイツェック駅」で途中下車して「アルプスピッツェ」へ登る事にする。
人気の展望台が有る為です。
眼下に「ガーミッシュ・パーテンキルヒェン」の町が見える。
2,628mの標高は頂上付近でも草が茂り雲の中に展望台が浮かんでいる。
ツークシュピッツェとは趣きが異なる。
足元は鉄製の網になっていて下界が素通しで見通せる。
足が竦み恐る恐る先端まで進む。














アルペン紀行(南ドイツ)①






バイエルンの海と言われる「キーム湖」はバイエルン州最大の湖、ミュンヘンの南東90km、プリーンの町にキーム湖はある。
キーム湖の最大の見どころはヘレン島に建つ「ヘレンキーム城」である。
バイエルン王、ルートビッヒ2世が建てた城。ルートビッヒ2世と言えば白雪姫のモデルとなった城。
「ノイシュバイン・シュタイン城」を建てた王でロマンチック街道の終焉地フッセン近郊にある。
内装は豪華絢爛でヘレンキーム城もノイシュバイン・シュタイン城と似ている。
ヘレン島へは「プリーン・アム・キームゼー駅」で降りる。
駅に隣接してキームゼー鉄道があり、それに乗り換える。キーム湖迄約7分、緑色の列車が運行されている。一等車も用意され乗り心地は上々、赤いソファーに乗って車窓の緑の景色に目を奪われる。列車は公園の脇を通り、林を抜け、ゆっくり進む。
まるで遊園地のアトラクションのような遊び心たっぷりの列車である。列車は桟橋の水辺の直ぐ近くに到着する。乗客はここで船🚢に乗り換える。
遊覧船はヘレンキーム城があるヘレン島に向けて出港する。
キーム湖の面積は約80平方キロメートル、琵琶湖の1/8程の広さである。船は15分程でヘレン島に着く。







城はルイ14世のベルサイユ宮殿を模倣して造られている。
1873年にルートビッヒ2世はヘレン島を購入して、翌年、王はベルサイユ宮殿を訪れ、くまなく見学して1879年にヘレンキーム城の建設を行なった。
城と言うよりは宮殿のような趣きで、金の椅子の背もたれは絵が描かれないまま未完成に終わっている。
王は40歳でこの世を去った為、
城の建設は中断された。
マイセンの磁器をふんだんに使っている。
王の死去により城は中央の一部分の建設のみで終わった。
70部屋のうち50部屋は現在でも未完成のままである。
王が此処に滞在したのは9日間のみであった。




やっと!一段落と言ったところか?



磐田の家の解体が始まる。
ここまで来るのに半年以上!
解体費用。撤去費用。
出来るだけ低く抑えるように処分出来る物を探し出して少しずつ片付けてきた。
家電製品もぎりぎり迄使って処分した。テレビ2台は横浜に運び、一台は孫に渡した。
冷蔵庫は三年しか使っていないので、リサイクルショップに持って行った。
箪笥等木材製品は家の解体と同時に潰せるので費用的には問題無く、最終処分場に何度も運んだのは、布団、着物・洋服類、食器製品、家電、工具類、書物、書類、アルバム、等等
一番大変だったのは、精神的にも金銭的にも両親、祖父母の遺骨関係である。
まず、寺に離檀届けを出し、離檀料を払い、墓仕舞いで解体費用がかかり、市役所に行き改葬許可証を出して貰うのに新たに埋葬する場所での墓地使用権利書を添付する。
磐田にあったかなり立派な仏壇も処分した。ものすごく重かった。運搬には通常、クレーン車を使う?仏壇の両サイドにはロープを通す穴が設けてあった。
今、思えば仏壇もリサイクルショップに持って行けば良かったかな?と!

やっと先日、横浜の霊園の既存の墓(自分たちの為二十年以上前に建ててあった)に祖父母、両親の遺骨を埋葬した。
もう、今の時代、墓は不要かな?
霊園の供養塔に埋葬すれば済んでしまうから。お寺は関係無いし!

そんな思いのこの頃です。
六月末には土地権利の書き換え手続きで磐田の実家としての関係が終り、想い出だけが蘇ることになる?
七月になったら磐田の車🚗の譲渡手続き、横浜への転出、転入手続き、(マイナンバーカードから印鑑証明等)運転免許証の住所変更をやらなくては!






磐田のガランとしたもぬけの殻となった家の中を見ていると
だんだん我々の死期が近づいて来ているのだなあー!
と感じるのです。